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じつは「ゴジラ」があまり好きではないんです。その理由をお話します。

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[KID'S SIGNAL] キッズシグナル●第1189号●2024年11月18日(月)
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読者さん、こんにちは。
少し前にテレビでゴジラの最新作である「ゴジラ-1.0」がテレビ放映されました。

でもねぇ、実は僕はこの作品がかなり嫌いなんです。
僕はゴジラは初代ゴジラと「シン・ゴジラ」以外は存在価値自体を認めてないんです。(理由は後で書きます)

でも、あんまり「嫌い」な話をしても、ウケは良くないので、FaceBookにせよ、映画好きの知り合いとの話とかでも、いつも口に出さず辛抱してるんですね。

それでもアメリカで大ヒットしてしまったものだから、続編を作るとかいろいろな話題も出たりして世間をにぎわしているのでどうしても見聞きはしてしまいます。
で、そのたびに「ちょっとなぁ」とか思っちゃうんですね。

そもそも、ゴジラなどの怪獣映画にせよ、僕が大好きなスーパーヒーロー映画にせよ、この手の「現実には存在しないもの」を描く作品というのは、いったいどこに存在価値があるのか? ということを、僕はどうしても問いたくなってしまうわけです。

あの名作「大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス(1967)」を作った湯浅憲明監督が、とても良いことを言っていて、対策本部で科学者たちによる科学解説が入るようなシーンを、

「怪獣が出現する時点で理屈ではない。怪獣映画に理屈を持ち込むべきでない」

と、科学解説シーンを否定してたんですね。

ここなんですよね。
つまり、もともと「ウソ」とハッキリ分かっているものを描く時、そこに合理性だとか科学的解釈だとかは、そもそも成立しないわけです。

湯浅監督の場合は、そこで割り切って「子供のための怪獣映画」として「怪獣バトル」に徹していたわけですが、だからこそ「子供の目から見た大人たちのエゴ」を暴く風刺映画としての側面を持つこともできたと思うわけです。

つまり、怪獣映画にせよ、スーパーヒーロー映画にせよ、そもそも「ウソ」を描くというのは、そこに切実な「描きたいテーマ」を嫌でも盛り込まざるを得なくなる、ということなんです。
ようするに、ウソを前提としている作品は、逆に高度に抽象化された「風刺映画」「社会批判映画」「人間の本質を描く映画」にならざるを得なくなる、ということなんですね。

なぜなら、そういう「テーマ性」みたいなことを明確にしないと、作品そのものが成立しなくなってしまうからです。だってもともと「ウソ」なんですから。

これがドキュメンタリーだったりすると、現実社会で起きた事件の背景やら事実関係を考えないと、そもそも何も理解できなくなってしまいます。
「ウソ」を描くということは、そこに「本当に描きたいことを抽象化して、象徴的に表現する」ということにどうしてもなっていくわけです。

その意味で、「ゴジラ」というのは、アメリカが国際法を無視して日本に原爆を落とした、という極悪な戦争犯罪を行った事に対する日本人全体の「怒りと批判精神」を、抽象化して象徴的に表現していたわけと言う部分が一番重要な要素だっただろうと思うわけです。

なにせ、初代ゴジラの場合は、製作された年はビキニ環礁での水爆実験の被害を受けた第五福竜丸の被爆事件があった年で、その現実社会での「水爆開発による戦争の恐怖」が色濃く作品に反映されているところがもっとも重要な点だったと思います。

「怪獣」という何かを仮託させなければテーマ性が成立しないジャンルの作品では、怪獣に何を仮託するのか? ということこそが最重要であるわけです。
その意味で、「原水爆の恐怖」を仮託させた初代ゴジラこそが本物のゴジラだと思うわけです。

「シン・ゴジラ」の場合は、あの東北大震災から5年後であり、想像を絶する自然の驚異に打ちのめされた経験が背景にあってはじめて「ゴジラ」という存在を「自然の驚異」に仮託できたから成立した映画なわけです。

ところが、「ゴジラ-1.0」には、そういう「仮託しているテーマ」が全然ないんですよね。
そもそも「ゴジラを特攻帰りの死に損なった主人公が倒す」という物語の骨格自体に意味やテーマ性がまったく感じられないわけです。

初代ゴジラにせよ、シン・ゴジラにせよ、その背景には戦争の恐怖や自然の驚異に対する恐怖が大前提としてあって、その体験をしてから5年程度のタイムラグで作品が作られているからこそ、ゴジラに恐怖を感じて鑑賞することができたわけです。

しかし「ゴジラ-1.0」は設定は70年も前の第二次世界大戦後の世界ですから、そもそもそういう切迫したテーマ性を盛り込むこと自体できるはずがないですし、いきおい、軽い軽い「娯楽作品」にしかならないわけです。

現実問題としては日本には二発の原爆が落とされていますし、そこで家族や親せきを失った方もたくさんおられます。
だからそういう意味で、初代ゴジラやシン・ゴジラ以外のゴジラ作品、とくに他の怪獣とのバトルを描いてゴジラを正義の味方的に描いている作品というのは、そういうご遺族の気持ちを無視して製作しているよなぁと考えざるをえないので、僕としては本当に全然面白いと感じることができないわけです。

このあたりの感覚は、理屈ではなく「嫌だなぁ」というストレートな嫌悪感なんですね。
日本人でゴジラファンというような人に対して、どうしてもこういう感想を持ってしまうわけです。

怪獣映画は「ウソ」だからこそ、「仮託」する力が強化されて、それが人の心を打つのだと思うのです。

これはスーパーヒーロー映画も同じことで、スーパーヒーローなんて存在しないからこそ、自分がヒーローになるとしたら、いったいどんな「正義観」を持って感じたり行動したりするのか? をどうしても考えてしまうし、その内面の心の在り方こそが大切だ、と僕は思うわけです。
そしてその価値観・倫理観は、現実社会で何が起きたとしても、「自分自身の判断力」として大きな支えになるはずです。

なので、スーパーヒーロー映画を観ない人は、とどのつまり自分の正義観を育てることができていない、非社会的な人間なのだと僕は断定しています。
で、まぁおおむねこの見方は的を射てると感じています。

なので、いつも僕は

「もっとスーパーヒーロー映画を観ろよ!」

と、言うし、それは、社会人として当然の責務だろう、とすら思っていたりするわけです。

でも、世の中は原爆被害者のことなど考えずに「正義のゴジラ」をかっこいい! と感じている人や、スーパーヒーロー映画なんて完全懲悪で、見る価値なんかない子供だましと考えている、頭の弱い人の方が多いんですね。

いや、ほんとにね、
「もっとスーパーヒーロー映画を観ろよ!」
なんですよ。見れば見るほど自分にとっての「正義」というものがはっきりしてくるから、と僕は声を大にして叫びたいんです。

ということで、今日のメルマガはここまで。
ではまた明日。


--------------[KID'S SIGNAL No.1189 -了- ]---------------


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