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高畑勲が問題提起していた「映像中毒=引きこもり」アニメ批判について、高畑勲がどんな「対策」を取ったかご存知ですか?

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[KID'S SIGNAL] キッズシグナル●第1298号●2025年3月7日(金)
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読者さん、こんにちは。
昨日もまた、配信できませんでした。このメルマガで取り上げている「映像中毒=引きこもり」というテーマは、けっこう微妙なところもあるので、書き始めると手直しがすごく増えて、昨日中にはうまくまとめられなかったんですね。
ごめんなさい。
ということで、今日はメルマガは2通になります。よろしくお願いしますね。

で、冒頭書いたとおり、高畑勲が「映像中毒=ひきこもり」論を展開しているのだ、という話の続きを書きます。

映像の世界に引き込まれてしまうと、人は現実と映像の世界の区別がつかなくなってしまいます。
特に、高畑勲が開発したような主観的に物語を体感するような演出と言うものは、読者が一切何も体験していないにもかかわらず何かを体験して教訓を得たような感動覚えてしまうのです。

この現実と、映画や映像の区別がつかなくなるとどういう問題が起きるか?というと、簡単に言えば、大震災が起きた時の報道のカメラマンの態度が事例としてわかりやすいんです。

瓦礫の下で死にかけている人がいて、2人の人間がそれを救おうとしているところを、カメラマンが撮影していたとする。でも、これ撮影している場合じゃないですよね?
カメラは横ににうっちゃって、3人でいっしょに瓦礫を持ち上げてあげなければなりません。そうすれば、がれきの下の人が助かる可能性はうんと高まるのです。カメラを回している場合じゃないんです。

でも、ここでカメラを回し続けてしまうと言うのが現実と映像の区別がついていない人の行動と発想なわけです。

この感性は、実は、引きこもりの人が何か映像を見て感動して、外に出もせず、何もしていないにもかかわらず何かをやっているつもりになっている感覚と完全に、まったく同じ、100%イコールなのです。

この部分わかりますでしょうか?
この「映像中毒=ひきこもり」論の問題点に関しては、僕がもともと、芸大の映像計画学科出身で、なおかつ、専攻がドキュメンタリーだったので、とてもシビアに自分に引き付けて考えざるを得ませんでした。
ただ、気にはなっていても、ずっとモヤモヤしていて、うまく整理できず、自分の言葉にもならなかったんですね。

ところが、先日、高畑勲さんが「映像中毒=引きこもり」状況を憂いていて、宮崎駿に対して、

●「こんな映画ばかり見せたら、みんな引きこもりになって、現実社会に戻れなくなってしまうぞ」

と、ずっと叱り続けていた、という話を聞いて、ものすごくものすごく納得できたわけです。

「ああ、これだ! 僕が整理できなかった問題はこの問題だったのだ」

と、はっきりわかったわけです。

●現実と架空の物語を、峻別しないままだと、視聴者は現実に戻れなくなる。

この考え方がものすごく深く僕の心に刺さったわけです。

現実と架空の物語を峻別せず、物語世界、映像空間に引きずり込んでしまう優れた演出技法を生み出した、高畑勲自身が、この「映像中毒=引きこもり」問題について、「これはまずい」と気づいたと言うのも、さもありなんと思うわけです。

自分がまさに世の若者をどんどん「映像中毒=引きこもり」にしてしまっているわけですから、その焦りたるや、大変なものだったのではないか?と思います。

そして高畑勲は、この問題を解決するための手法を編み出します。

それが

●この映画ははっきりと架空の話だとわかる「ポンチ絵」表現に「絵の質」をとどめてしまう。

と言う手法だったのです

この手法の代表が、「アルプスの少女ハイジ」だろうし、あるいは「じゃりんこチエ」かもしれないし、後年の「ホーホケキョとなりの山田くん」だとか、「かぐや姫の物語」などにつながっているわけです。

これらのアニメは、絵柄そのものが「ポンチ絵」レベルの非常にシンプルなタッチで描かれています。

しかし例えばとなりの山田くんなどにおいては、いしいひさいちの極端にシンプルな絵柄でありながら、セル枚数は非常に多く、登場人物たちの体の動きや表情などは実際の役者さんの演技並みに細かいのです。

●ホーホケキョとなりの山田くん:予告
https://www.youtube.com/watch?v=2fRLxWBj2fo

この予告なんて、まさに上記の「現実と架空の物語の峻別」を描いています。
この予告だけで、「素晴らしいなぁ」と僕は思ってしまう。

大事なことは、「ポンチ絵」である限り、見ている人はこれを現実と同じ世界とは認識しない、ということです。
見ている人はちゃんと現実と架空の世界を区別できる。がれきの下の人を救うためにカメラを横に置く、心の余裕を持ったまま映像を鑑賞できるのです。
そして、そこに描かれている感情だとか伝えたいテーマだとかは、絵柄がシンプルであるがゆえに解釈に誤解が生まれにくく、より一層明確に伝わるようになるのです。

それは、宮崎駿映画のように、「現実と架空の話の間の線引きをあやふや」にしたまま、動きの面白さなどで興味を引き、登場人物たちに親近感を覚えさせて、あたかも感動したかのように空っぽなストーリーを押し付けてくる手法とは真逆のやり方なのです。
(僕はどうにも宮崎駿のこの手の映画が嫌いで嫌いでしょうがないんです。)

高畑勲の「ポンチ絵表現」は、明確に

「この映画は、架空の物語、嘘のお話、単なる例え話だよ」

と言うことを、見る前から視聴者に「超ハッキリと」印象付け、決して視聴者を物語表現の中に引きずり込んだりはしないのです。

これが、高畑勲が編み出した「現実と物語空間を、厳しく峻別する演出技法」であるわけで、この表現を取る限り、観客は現実世界から1歩も映像空間の中に入る事はないわけです。
つねに「がれきの下の人を救う」心のゆとりを持てるわけです。

ここがね、僕はとても大事だと思うわけです。
ということで、この話まだまだ続きますが、書くのにパワーが必要なので、また少し時間をあけて書いていきます。

ではでは、今日のメルマガはここまで。
次号は、すぐに発行されますよー。本日は2通。

ということでいましばらくお待ちください。


--------------[KID'S SIGNAL No.1298 -了- ]---------------


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