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「映像文法の暴走」というのは、ほんとうにほんとうに怖いんです。その怖さについて、もう少し書いてみたいと思います。

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[KID'S SIGNAL] キッズシグナル●第1310号●2025年3月19日(水)
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読者さん、こんにちは。
今日は「映像文法の暴走」が、もっと極端になったらどうなるのか? ということについて、もう少しシビアに書いてみたいと思います。

前にも書いたように、

「テレビカメラマンが、がれきの下敷きになっている人を救う人を、手伝いもせずに撮影している」

という感覚こそ「映像中毒」「映像文法の暴走」なわけです。
「がれきに敷かれた人」は即座に助けなければならないのに、「がれきに敷かれて死に行く登場人物」というイメージでしか現実を見れなくなってしまってるんですね。

●いますぐカメラを投げ捨てて、がれきの下の人を助けに走れ!

ということなんです。映像の内容なんてどうでもいい。人の命の方が大切に決まっているんです。
でも映像中毒になると、「映像体験のために人の命を無視する」なんてことがフツーになってしまうんです。恐ろしいことです。

これに似た話で「感動ポルノ」という奴があります。

感動ポルノとは、「障害者の奮闘する姿」が健常者の感動の対象として「消費」されていることを批判する言葉です。
これなどまさに「がれきの下の死にゆく登場人物」と同じ人権無視のひどい捉え方でしょう。

「感動ポルノ」で描かれるのは、「テレビ受け」する身体障害者に限られ、精神障害者や発達障害者が登場することはほとんどありません。
ただ障害者が、苦しみながら努力している姿を見て感動して「すごいねぇ」と言ってるだけなわけです。

感動するより重要なことである、その障害者の障害を負った経緯とか、実際に障害を負ったことによる実際のさまざまな負担、本人の内面的な思いなどは、あまり描かれないわけです。

考えてもみてください。その障害者が障害者になった経緯が「自分にも起こりうること」だったらどうするのでしょう? そういう視点で「障害」を考えることの方が、そんな「感動ポルノ」のような軽薄な視点より、圧倒的に重要です。

●自分だって、いつ「障害者」になるか分からない。

そういう「現実」そのものを直視する視点の方が圧倒的に重要です。いや、圧倒的というか絶対的に、ですね。比較することですらありません。

「障害を負う」ということの、肝心の「大変な現実」には目を背けて「感動」だけを求めているという状態が「感動ポルノ」なんですね。
こんなおかしなことはないでしょう。

現実に「自分も障害者になるかも知れない」という厳しい可能性に目を向けず、ただ障害者の「現実」をポルノのように感動して、「消費」して終わっているわけです。

これが「映像中毒」が引き起こす、「現実直視できない」という感情の在り方の「異常」なんですね。

自分がその障害者のようになるかもしれないとか、もし自分がそういう境遇になったらどうすればいいのか? とかのとても現実的で当たり前の視点がゴソっと抜けていて、それで平気なわけです。
それが「感動ポルノ」なわけです。

この「感動ポルノ」がなぜ発生するかと言えば、「がれきの下の被災者をカメラを投げうって助けに行く」という感覚が薄まってしまっているからです。
「何もせずに見続けていれば感動が手に入る」という「映像中毒」の選択肢しか知らないからなわけです。

これこそが、高畑勲が問題視している、「架空の話と現実とをあいまいに表現してしまう演出」のとても現実的な「不利益」なわけです。

現実と架空の話の区別がつかなくなったら、まず区別がつかなくなった人は正しく幸せになることはできません。
また、「アタッシェケースに5億円は入らない」のに、無実の罪で政治家を陥れられるのだから、社会そのものがガタガタになります。
そして障害者が障害者になった原因も分からないまま、予防もされず、自分が障害者になって、それで苦労しているところを「消費される」という最悪の状態になり、がれきの山にうずもれても助けられることなく死んでいくしかない社会が誕生してしまうわけです。

超恐ろしいと思いませんか?
映像によって人が殺されてしまう社会が誕生するわけです。
超恐ろしいです。

だからこそ、「映像のプロ」として、高畑勲は、「現実の社会と、架空のお話の線引き」を超厳しく引くことにしたわけです。僕はこの態度のすばらしさを高く高く高く評価しているのです。

これこそが現代社会において、しっかり注目することが必要な最重要課題だと考えているからです。

ということで、この話長くなるので、またいずれ続きを書きます。
ではでは。


--------------[KID'S SIGNAL No.1310 -了- ]---------------


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