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「スーパーヒーロー物」を見る人に「感動ポルノ」を喜ばない人が多いのは、たぶんきっと「現実直視」をする習慣ができてるからだと思う。

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[KID'S SIGNAL] キッズシグナル●第1313号●2025年3月22日(土)
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読者さん、こんにちは。
先日からずっと「映像中毒=引きこもり」という話を続けているわけですが、どうにも、

●「映像中毒=引きこもり」の人は「感動ポルノ」にもはまりやすい

という特徴があるように思えて仕方ないんですね。

で、これは映画好きと呼ばれる人全員にあてはまる特徴なのかもな、僕も引きこもり傾向が強いんだろうな、という気持ちでいたわけですが、どうも僕はこの「映像中毒=引きこもり」的な精神構造とはずいぶん遠いところにいてるらしいんですね。

というのは、僕自身は映画の中でも「スーパーヒーロー物」ばっかりを観る人なわけです。先日本棚の整理をしていたらこの数年に映画館で観た映画のパンフレットをまとめていたら9割スーパーヒーロー物でした。

で、ネットで映画の解説動画とかもよく見るわけですが、いろんな映画考察のたぐいの解説を見ていても、どうも「スーパーヒーロー物」を好きで見ている人達というのは、その他の「映画ファン」とは、どうも一線を画しているんですね。

まず何より、社会の動向ということに対してすごく知識があったり、ちゃんと自分の意見を持っていたりと、「自立」してる感じがすごく強いんですよ。
なので、解説動画とか見ていても、すごく納得するわけです。

FaceBookなどにも映画ファンのためのグループとかありますけど、一般的な映画だと、感想がものすごく個人的な私見で、映画とは直接関係ない個人的な体験を語っていたりすることが多いのが一般映画のファン、という感じなんですけど、スーパーヒーロー映画の感想だと、映画の内容で描かれている悪役の行為を、現実の社会の「これこれ」という事例と照らし合わせてもひどいよねとか、そういう社会とのつながりを感じる意見を言ってる人が多いんです。

で、正直一般的な映画を個人の体験を語るためのきっかけとして利用してるような感想なんて、聞いていてもちーともおもしろくないし、そういう人の映画の感想は「おもしろかったかどうか」だけで、全然役に立たなかったりするんですね。

はじめのうち、どうしてこうも「スーパーヒーロー映画」を見る人の感想だけこんなに違うのか理解もできなかったんですけど、ある時突然に理解できたんです。

これね、

●スーパーヒーロー映画は観終わった後に、嫌でも現実に引き戻される構造を持っている

からなんです。

一般映画というのは、映像作品を見ていて、主人公とか登場人物に感情移入をして鑑賞して、そして見終わった後も、その余韻が残ったまま劇場を出るわけです。よくある言い方をすると、ヤクザ映画を観た後はちょっと歩き方がぶっきらぼうになっていたりして、映画と現実の区別があいまいなままなわけです。

で、その「現実と映画の世界の区別があいまい」なところが、多分普通の人は好きなんだろうなと思うわけです。

ところがスーパーヒーロー映画というのは、そういうわけには行かないわけですよ。
そもそも主人公が目から光線を発射したり、ロープもなしに壁を登ったり、ミサイルをあてられてもビクともしなかったりと、「あり得ない話」ばかりが展開されるわけです。もともと「現実と映画の区別が強烈に大きい」映画なわけです。

そんな「死なない人間」「特殊な能力を持った人間」なんて、現実には存在しませんから、そもそもそういう主人公にストレートな感情移入はしにくいわけです。

スーパーヒーロー映画を観終わって劇場を出てきても、自分が空を飛べるとか思わないですからね。そもそもやくざ映画みたいに自分が主人公になったようなつもりにすらなれないのがスーパーヒーロー映画なわけです。

だからこそ、映画の中で描かれている「敵」の存在と現実の「悪い奴」とを比較してみたり、物語構造と社会の構造を照らし合わせてみたり、というような社会性の高い鑑賞習慣になっていくわけです。

だから分かりやすくスーパーヒーロー映画の特徴を一言で言うなら

●私はスーパーヒーローではない、ただの人間である。という現実直視を嫌でもやらざるを得ないもの。

が、スーパーヒーロー映画なわけです。もっと一般的な言い方に変換すると、

●私はスーパーマンではない。

ということになります。
おしなべて、すべてのスーパーヒーロー映画は、この「私は特殊な能力を持つ人間ではないんだ」という諦観とか現実直視をするための映画である、とすら言えるわけです。

そして、この「私はスーパーマンではない」という諦めの心情こそが、現実直視のために絶対必要な認識なんですね。
基本的に、スーパーヒーロー物の映画を好む種類の人というのは、この「あきらめ」をしっかりと体感している「大人」が多いんだと、僕は感じているんです。

総じて、スーパーヒーロー物を好んでみる人は、こういう心情を持っていると感じています。

この「あきらめ/諦観」がある人ほど、周りに頼るしか仕方ないんだ、という現実的な選択肢をキチンと理解しているし、当然「がれきの下にいる死にかけの人」がいたらカメラをうっちゃって助けに入るし、感動ポルノも気持ち悪くてゾッとするという気持ちに、自然となっていくわけです。

だって「私はスーパーヒーローではない。ただの普通の人間だ」ということばかりを、延々と映画を観るたびに体感しているわけですから。
そして、スーパーヒーロー映画の素晴らしいところは、「ああ、ただの普通の人間であることって素晴らしいことだな」と感じられる、ということなんです。

で、こういう考えにたどりついた時に、高畑勲さんが「引きこもりを生まないために、現実と架空の世界を峻別する演出」にこだわっていたのだ、ということを知り、すごく興味が出て、で、「ホーホケキョとなりの山田くん」を見たら、まさに僕が上で書いている、

●私はスーパーマンではない

ということこそを、高畑勲は描いているのだと知って、ほんとうにびっくりしたわけです。
そうか、映像とは何かとか、真剣に考えて行ったら、こういう結論につながっていくのは当たり前なんだと、ほんとうに心から胸落ちした、ということなのです。

ということで、今日のメルマガはここまで。
ではまた明日。


--------------[KID'S SIGNAL No.1313 -了- ]---------------


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