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また、ゴジラ-1.0について愚痴ってしまいました。すみません。ちょっと読んでみてください。

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[KID'S SIGNAL] キッズシグナル●第849号●2023年12月10日(日)
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読者さん、こんにちは。

ゴジラ-1.0の感想を昨日書いたんですけど、今朝たまたまゴジラファンの人のブログがGoogleのおすすめに出てきていて、さらっと流し読みしてみて、ゴジラファンがどこに感激してるのかを見て「ええええー、そこ? そこが良かったわけ?はー」と呆れるやら驚くやら、本当に情けなくなりました。

簡単に言ってしまうと、

●時代設定を第二次世界大戦直後にしたから、ビルを見下ろすゴジラが見れてよかった。

という意見だったわけです。

それを聞いて、まさに昨日書きかけて書く時間もなくて書かなかった、

●「ゴジラファン」は、日本の映画業界のガンになっている。

というのを改めて実感しました。
僕はこういう「感覚」が本当に嫌いで。

実際、ゴジラが昭和二十年代の銀座でビルを壊しているシーンは、僕の感覚からすると、

●小さなビルを壊しているちゃっちいゴジラ

という感じしかしなかったわけです。
全然怖くないし、ビジュアル的な衝撃もないし、迫力もない。

それより、そういうビルを破壊しまくっている隣のビルの上で実況中継しているカメラマンとアナウンサーが出てくるのですが、この人たちがビルから逃げようとしないという不自然さの方が圧倒的に異様に感じて見てられなかったんですね。

どうしてこうなるかというと、当時の銀座のビルとかは、当時の人たちにとっては復興の象徴だし、初代のゴジラ映画では、その「やっとここまで復興した」という象徴の代表が銀座のビル群だったわけです。だから一作目のゴジラがそれを破壊するのはものすごく意味があったし、絶望感も出たわけです。

でも、いまそれをやっても、地方都市の雑居ビルを壊している程度にしか見えないわけです。特に僕のようにマーベル映画での破壊シーンとかやたらと見てたりするとなおさらです。
いや、そもそも映画のストーリーの中で「やっと日本もここまで復興したねぇ」とかいうシーンがあれば、それは全然意味が違ってきて感じ方はまるで変わるんでしょうけど、そういうシーンは描かれてなかったですしね。
さほど大きくもないゴジラが雑居ビルを壊して、それがどうして「怖い」のか、さっぱり分からん。いやほんま、本当に何も感じないんですよ。マジで。

でもね、ゴジラ好きは、どうしても「ビルを見下ろすゴジラ」とか、そういう見た目のシーンの雰囲気を求めるんですよ。ゴジラという映画は何十年も、ずっとそればっかり追いかけてきたから。それをこそ見たいとかゴジラファンはみんな思ってるんでしょう。

でも時代性もあるし、他の映画との表現のバランスもあるし、「ゴジラらしさ」だけで映画を作られてもウソっぽいだけだと思うんですよね。とくに僕のようにSF的なお話やヒーローもの、寓話が大好きで、山盛りそういう映画ばっかり見ていて、ゴジラそのものにはまったく興味も思い入れもない人間からすると、どうしてもそうなるわけです。

実際、ゴジラが歩いているその下を逃げ惑う人がいるというシーンが出てくるんですが、(それもゴジラの足と逃げ惑う人がシームレスにつながって描かれる、現代のCGならではのカットです)これをリアルにやればやるほど、ものすごくウソ臭くなるんですね。

まずそもそも、逃げてる人が、なぜそんなところにいてるの? という感じがする。
これだけの巨大生物が近くに来たら、一歩あるくだけで10mや20mは移動するわけだから、遠目に存在が見えた段階で逃げるでしょう。
そうでなければ建物の中にはいるとか。
ゴジラの足元を逃げ回っている人たちが大勢いてるというところがものすごい違和感があるんですね。

これも、他の巨大生物から逃げ回るような映画をたくさん見ていれば見ているほど不自然に感じるわけです。そういう逃げるタイミングとかをリアルに作りこんでる映画なんて山のようにあるわけですから。

しかもゴジラ-1.0の場合、足で踏むシーンを上から見下ろしアングルで撮っているから、道路がいまのアスファルトなんですよね。当時だとまだ石畳もあっただろうし、そこまで整備されていないはずだから、逃げている人だけ現代になって、リアリティが全然ないんです。

このあたりも、いまのゴジラファンが形だけの「ゴジラ」を求めているから、山崎貴監督がファン向けにサービスして、こうなっちゃうんだと思うわけです。

ゴジラに踏みつけられる、似たような銀座のシーンは初代ゴジラの映画の中にもあったんですが、そこにこういう違和感はなかったんですね。

なんでかというと、撮影されている人間が全員「戦争体験者」だったからです。

逃げ惑う人を、エキストラを使って撮影しても、そもそも表情が全然違うわけです。つい数年前に空襲の中を逃げてきたような人たちばかりだった。だから、そういう恐怖の表情や動作を自然にやれたわけです。
そして映画を見ている人も、そこに思い入れが出る。銀座のビルが壊され、人々が逃げ惑うシーンに、第五福竜丸での核実験の怖さを重ねて恐怖を感じて見ることができた。映画全体もそもそも放射能への怖さが通底するテーマとして重く敷き詰められてましたから、なおさらです。

でも、いまだと、ひとりひとりのエキストラが現代的な緊迫感のない動きしかしないわけです。
原爆の恐怖も、そもそも第五福竜丸の事件を観客の側が知らないし怖いとも思ってない。
極めつけにダメなのは、映画の中でそういう放射能の恐怖を描くシーンそのものがない。

ここはねぇ、もう昔から思ってたことで、これがあるから東日本大震災のすぐ後に作った「シン・ゴジラ」はタイミングを逃さずうまくやったよなぁと思うわけです。福島原発の事故もあったしね。あのタイミングでしか意味をなさない映画でした。そういう部分がゴジラ-1.0にはまるでないわけです。

で、もう一つ言うと、僕はマーベル映画が大好きなので、巨大クリーチャーが建物を壊す、というようなシーンは、それこそ大中小、さまざまなサイズで、いろいろな表現で見てきているから、こういう時代背景を無視して描くゴジラは「ちゃっちい」としか感じなくて、クソつまらないわけです。

ほんとうに正真正銘、掛け値なく、「クソつまらない」んです。マーベルのエンドゲームまでの22作品を見てたら、やっぱりそう思うんじゃないかなぁ。

つまり、特撮とかがいまやすでにCG表現として普通になっているから「戦後すぐの銀座でゴジラが大暴れ」をやっても、茶番劇にしか見えないわけです。

でも、こういう時代背景の意味とか他の映画の表現のあり方などを全無視して、「ビルを見下ろすゴジラ」とかのノスタルジーを評価してしまうのがゴジラファンなんですよねぇ。
ここがねぇ、本当に日本映画にとってやばいと思うわけです。日本の特撮というかCG技術と質が、ただただ遅れるだけなんですよねぇ。

うーん。

ちょっと愚痴がひどくなってしまったので、今日はここでやめます。
まだまだ言いたいことはあるんですけど。

ということで、今日はここまで。
ではまた明日。


--------------[KID'S SIGNAL No.849 -了-]---------------


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